トラック乗りのおっさん">
        

上から目線

2017/ 08/ 14
                 
私たちトラックドライバーは物理的に上から目線である。それに精神的なものが加わると色々厄介なことになるが、とにかく普通乗用車よりも視点が高く、より広範囲に全体を見渡せているのである。最近はバックモニターも標準装備されているし、たくさんあるミラーから得る情報量も普通車の比ではない。何かと悪者にされるトラックではあるが、そのほとんどが普通車の悪意とも思えるお行儀の悪さに曝され、心を完全に病んだ幼いトラックドライバーの所業である。所謂、「こいつら人間じゃねぇ!」という浅はかな思考回路からの復讐心丸出しの攻撃的な運転だ。トラックに必要な車間距離を無視して鼻先に飛び込み、いきなり右左折を開始する普通車、本来は追い越し車線であるはずの中央寄りの車線を近々に右折をするわけでもないのに延々と制限速度以下で走行する普通車、左折時、大型車に必要な内輪差を考えて敷設された停止線を越えて停まる普通車、そのせいで信号が何度変わっても左折できなかったりするし、パーキングエリアでは普通車枠がまだ空いているのに大型車枠に平気で停める普通車の集団無意識的な行動に怒り爆発...なんてことの連続する日々...自動車学校で習ったはずのルールやお行儀をまったく守らない人の多さに閉口しているのは、実は大型ドライバーの方なのだ。上から眺めていて見かける普通車同士の事故のほとんどがエゴのぶつかり合いだ。スムーズな交通を促す意識がまるでないドライバーがこの時期には溢れかえる。最低でも人に迷惑をかけないとか、人に不愉快な思いをさせないとかいった人としての基本的なお行儀教育を受けていない人が多いのかもしれない。その傾向は、人と人との軋轢が少ない地方へ行くほど多く見受けられる。私たち日本人は、いつからこんな風になってしまったのかな...。
                 
        

二日目の悪魔

2017/ 08/ 13
                 
お盆休み初日は子供の霊と遊び、次の日も来るのかと思いきや、二日目は悪魔が来たりて首を揉む...そんなタイトルのドラマがあったような気がするが、笛を吹くだったか?。とにかく、悪魔のような顔をした霊が、寝違えて回らなくなっていた私の首をマッサージして治してくれたのだ。なんともありがたい話し。で、三日目の今夜は何が来るのか楽しみで眠れない。
                 
        

いつものアレ

2017/ 08/ 12
                 
昨夜は二回も子供の霊に起こされ、今日は少々寝不足気味である。私の左腕を引っ張り、右腕を引っ張り、煩いのでうつ伏せになると背中をずっと揺さぶっている。「ねぇーねぇーねぇーねぇー遊んでぇー♪」の連発。お盆にはまだ少し早いだろうに、待ちきれなくて来てしまったんだな。もしかすると昨夜組み立てた盆提灯を見てワクワクしてしまったのかもしれない。それにしても、何故いつも真夜中なのだろう?。浮遊を許されたこの時期に特有の現象だが、昼間でもいいと思うんだよね。まぁ、昼間はいくら声をかけても気付かれないことの方が多いかもしれないな。可愛いから邪険にもできず、暫く遊んでしまった。今夜も来るのだろうか?。早めに寝て、体力を養っておこう。
                 
        

映画鑑賞

2017/ 08/ 11
                 
やっとゴースト・イン・ザ・シェルを観た。と言ってもケーブルテレビのオンデマンドでの鑑賞。最近のCG技術はハンパないんだな。昭和育ちの私には驚きの一句に尽きる。電脳化や擬体化が実現する時代なんて想像もつかないが、有り得ないとも言えない。そうなると死というものの定義が大きく変わってしまう。霊的なものが人の本質である以上、いつまでも肉体生活を続ける訳にはいかないだろう。死は進化の形のひとつでもあるのだ。従って電脳化や擬体化の技術が確立されても、死はなくならないはず。なんてことを真面目に考えてしまった。人は過去の記憶に拠り所を求めず、今何をするかで価値が決まるとか、自分が何をするべきかを知っている...なんて言う少佐の台詞にも痛く賛同した。まぁ、とにかく面白かった。
                 
        

生きる力

2017/ 08/ 10
                 
突然の非日常に放り投げられた場合、人は命を落とすことがある。自殺とは言えない方法で、人は比較的自由に命のスイッチを自分で切れるということなのだ。誰でも生きるためには必要とされる場所が必要なのだ。何らかの義務が人を生かしている。果たすべき責任と喜びがなければ、生き続けるのは難しい。
                 
        

小さな日常に大きな感動

2017/ 08/ 09
                 
女房がにぎってくれたおにぎりが、物凄く美味しくて感動することがある。大袈裟だと言われるが、涙が出るくらい旨いのだ。そして、そんなひと時に心の底から感謝する。通勤途中の車の中で起こるほんの一瞬の出来事だが、私にとってはかけがえのない時間になる。実際、これが本当の豊かさだよなと、しみじみ思う。何気ない日常の中にはたくさんの感謝できる物事がある。それらのひとつひとつに気付く過程に、私は喜びを感じる。なんでもないことが、実はとてつもない贈り物だったりする。
                 
        

親子の関係

2017/ 08/ 08
                 
子供は見事に親を反映する存在なので、親は見ているだけでハラハラドキドキものだろう。なにしろ自分の欠点をあからさまに自分以外の人間に実演されるのだから、顔から火が出るはずだ。たぶんそれは、子供の自我が成熟するまで続く。しかし子供はかなりの確率で親が学べなかったことを習得し、命の流れに進化をもたらす。親から子への一番の贈り物は、親を必要としなくなるタイミングでしっかり子離れすることだと思う。それができずにいつまでもそばに置いておこうとするのは最悪だ。親に寿命があるように、子供の命の時間もそれほど長くはない。できるだけ早く自立させ、自分の命の時間を自分の人生のために使わせるべきだろう。世襲制の家に生まれたわけでもないのに、子供が親の知らない世界を学べないのなら、その人生は無駄に終わる。更に、子供に親の面倒を診る義務などない。従って、親には死ぬまで健康でいる義務があるし、全ての存在を慈しむ態度を行動で見せる必要がある。そんな関係性が、親子には一番大切だと思うな。
                 
        

贈り物の意味

2017/ 08/ 07
                 
人が誰かに贈り物をする事情はポジティブな物ばかりではない。むしろネガティブな下心の方が多いのではないだろうか。恋人同士の関係でも、自分に都合の良い振る舞いを相手に期待する何らかの取り引きを感じるし、親から子への贈り物も、ダメな子ほど可愛いと言う理由から何かを与えたくなる欲求を満たしているだけに見える。仕事絡みの贈り物は明らかに経済的なバランスの修正でしかない。とにかく私は、人が人に何か物をあげる行為には純粋な愛情を感じないのだ。私が知る限り関係性に支払うべきものがない人は贈り物をしないのだが、そこに揺るぎのない愛がある場合、物にもお金にも代え難いエネルギーの交換と同調が起きている。私に言わせれば、それよりも価値のある贈り物は他に見当たらない。それを言葉にするのは不可能なのだが、この理解を共有できる人となら、私は親友になれると思う。
                 
        

アドバイス

2017/ 08/ 06
                 
「現状を打破するための何か特別なメッセージはありませんか?」...霊能者にそんな質問をしてしまう時点で、あなたはもう自分の人生を他人に責任転嫁している。不幸になった理由を誰かのせいにしたい気持ちはわかるが、全ての責任は自分自身にあるのだ。そんな人には、「私も含めて世の中のスピリチュアリストだとか霊能者だとか言ったり言われたりしている人の類との縁を完璧に切れ!」と言う。目に見えない世界のことを個人的に伝えるのはルール違反なのだ。その禁を犯して中途半端な能力を生きる糧にした場合、たぶん酷いことになるだろう。とにかく、自分の人生の選択には100%自分で責任を持つことが大切。他人に未来を委ねてどうするんだ?。人は一人で生まれてきて、一人で死んで行く。人生には自分一人で気付かなければならないことがたくさんある。
                 
        

人生と仕事の話し

2017/ 08/ 05
                 
時々、「運転手さんって年収いくらなの?」なんて質問をあっけらかんとしてくる人がいる。それがこの業界全体のレベルを訊いているのか、地域別の統計を作成しているのか、個人的な金額を具体的に知りたいのかにより答えは変わってくるが、根本には未知の世界にいる人のランキングをするための情報を収集しているようだ。要するに、年収の金額がその人の価値を計る上でのプライオリティになっている。実は経済的な成功と豊かさには何の関係性もないのだが、多くの人が誤解している。比較評価や競争は無駄な争いを招くだけで、全く建設的ではない。地位や名誉、経済を人生の目的にしてしまうと、あらゆる不正や悪事に手を出してでもそれを達成しようとするのが人だ。単なる道具に振り回され、慈しむ心を失ってしまえば、人は人以下に堕ちる。本来仕事は奉仕の精神からするものであり、取り引きのあるところに愛は育たない。そんなものを学ぶために人生はあるのだし、意識の違いは命の時間の質を大きく変える。周りに不幸な人ばかりが大勢いれば、当たり前のように自分も不幸になる。従って、どうすればより多くの人が幸せになれるかを考えて行動しなければ、いつまで経っても幸せにはなれない。つまりは、人生なんて自分が幸せになるための時間ではないということだ。そんな仕組みを理解する個人が増えない限り、この世界は幼いままだ。
                 
        

ベーシックインカム

2017/ 08/ 04
                 
フィンランドの失業者二千人を対象に、政府が月約六万八千円を支給するシステムが試験的に導入されているらしい。生活保護とは違い、就業しても支給額を減らされたりしないので、受給者は安心して仕事に就ける。要するに、満足に暮らせる賃金を貰える仕事が、フィンランドには極端に不足しているのだろうけれども、だとすると少ない税収で国民を養うことになるし、早い話が能力のある者がその他大勢を養う形は更に不幸な事態を招くような気がする。遠すぎてフィンランドの状況がつかめていないのだが、保健状態、教育や技能においてユーロ圏では平均を上回る国だと思っていたのは古い情報なのかもしれない。国民全体に過去の社会主義的な思考の傾向性があるのだろうか?。何かしないと生きていけないシステムは、成熟していない人類にとって不可避なもの。どうせ暮らせるだけの賃金を貰えないという理由で仕事に就かない人たちにお金を支給するのは間違いだと思う。仕事というものは基本的に奉仕なのだ。私たちはその精神を学ぶためにここにいると思っても間違いではない。人類の全てがそれを習得すれば、ベーシックインカムどころか経済システム自体が不要になると思う。
                 
        

サイトの在り方色々

2017/ 08/ 02
                 
できれば毎日更新してしてもらい、時には過去記事にもサクッと飛んで行けるメニューレイアウトで、閲覧の邪魔をする広告のないサイトにして欲しいブログがいくつかある。一番ウザイのは、上から下に半透明で流れ落ちてくる広告だ。せっかく夢中になって読んでいるのに、スクロールする度に触ってしまい、広告主のサイトにジャンプしてしまうのだ。人に不愉快な思いをさせてまでアクセス数を増やそうとする態度は間違っていると思うのだが、どうだろう?。あの動く広告のせいで多くの読者を失っているサイトは少なくないはず。例えばの話し、どんなに稚拙な文章でも、愛すべき言葉で溢れているブログがある。書いている本人は何の取り引きもないので、広告のない有料サービスを利用する気は毛頭ないだろう。そして今更読者のために広告のウザくないサイトに引っ越すこともしないだろう。その結果はランキングに顕著に現れている。私の書くブログなんかより余程ためになることをたくさん書いていながら、コラムのジャンルではひょっこり参入したての私のブログがずっと一位に居座っている。ただ単にgooブログが読みやすいだけの話し。まぁ、中には私の書くものを毎回読んでくれている奇特な方もいらっしゃるようで、いつもご閲覧、そしてランキングのクリックをありがとうございます。今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。
                 
        

部外者にお伺い

2017/ 08/ 01
                 
昨日で自分の籍を置く会社が変わり、これまで付き合い上お断りできずに請け負い続けていた低運賃の定期便から外れられてホッとしていたのだが、誰でも三日で覚えられる仕事を一週間もかけて引継ぎをしたのにもかかわらず、一日に何度も集荷先から問い合わせやクレームの電話がかかってくるし、引継ぎをした運転手からも質問の電話がくる。事細かにマニュアルまで作って渡したのに、一切読んでいないようだ。責任感の欠落と甘えの構造にどっぷり浸かった態度を、五十二歳のおっさんには見たくなかったな。集荷先にしても、きちんと運転手が変わる挨拶をしているわけで、私がもう部外者だと知りながら連絡事項を代行させるのだから、全くケジメがない。自分の労力を減らすためなら平気で厚顔無恥なことをやらかす。要するに、できることなら働かずに給料をもらおうとする輩ばかりだと言うことだ。実はこの世の中にはブラック企業よりもブラック労働者の方が多いのではないだろうか?。ブラック企業相手に闘っている人の中には、全く義務を果たさず権利を主張している者も多い。残念で恥ずかしい話しだが、そんな幼さと向き合うなら、私もブラック経営者になるかもしれない。
                 
        

死者との対話

2017/ 07/ 31
                 
昨日の四時四十七分、女房の父親が逝った。脳梗塞で倒れてから約五年の寝たきり生活を余儀なくされ、それは体という牢獄に閉じ込められた辛い時間だったと思う。息を引き取ってから四時間後に彼の遺体と対面。確実に姿を見せると思っていたが、私には見えなかった。しかし今まで会話もままならなかったせいか、お喋りが止まらない。催事場の担当者を交えて様々な打ち合わせをしている間中、彼も積極的に話し合いに参加していた。それを逐一私が通訳する形で時は流れ、喪に服すと言うよりも、久しぶりに団欒を持てた楽しい家族の風景と言った感じで、笑い声が絶えなかった。遠くにいた家族も昨夜遅くに駆けつけ、今夜がお通夜。今回改めて、死は解放以外の何でもないなと強く感じた。はっきりと自覚のある死を迎えた人は、明らかに時を超えた空間に立つ。過去と未来が現在に集約されるので、香典返しや、必要になる引き物の数までも手に取るようにわかるんだな。お葬式のプランには様々なセットがあるのだが、お参りに来てくれる人の数を多めに予測して無駄が出てしまうこともある。しかし未来が見えている人が的確な数を指示してくれるのなら、残された家族は大助かりだ。今回は自分の遺体に着せる着物の色や、棺にかける生地の色、遺影に使う写真まで全て本人の霊の立ち会いの下で選択した。明日は朝から告別式。慣れ親しんだ体を燃やすのは寂しいが、私たちは笑顔で彼を見送る。「忙しいのに悪いね、色々ありがとね...」と、ひとつの物事が決まる度に、彼は皆に感謝していた。
                 
        

夏の夜の楽しみ

2017/ 07/ 30
                 
五月から始まった定期便の仕事が、まさかの会社の合併吸収により三ヵ月で終了。来週からはまたフリーのトラックドライバーに返り咲き、趣味の昆虫採集を再開できそうだ。とは言え、今はコクワガタの雄を一匹しか飼っていないし、雌となると種類がイマイチわからないのが私の昆虫に対する知覚レベルだ。七月は真夏日が九日間も続いたので、八月は北海道にも大量のクワガタやカブトムシが羽化するはず。夏のナイトドライブはクワガタ拾いに明け暮れる。

去年の今頃はノコギリクワガタの幼虫を十六匹飼っていたのだが、欲しいと言う人にケースごとあげてしまった。北海道では専らノコギリクワガタとミヤマクワガタを拾うことが多く、南国のミヤマクワガタマニアには魅力的な環境かもしれない。ただ、ノコギリクワガタもミヤマクワガタも越冬しないので毎年死と対峙するのは辛い。その点、コクワガタは二~三年生きるので初心者に飼うのは優しい。

私の知る限り越冬する種類はコクワガタ、オオクワガタ、ネブトクワガタの類だが、オオクワガタは道南の一部でしか採集できないかもしれない。数十年北海道に暮らしているが、街灯のあるパーキングでオオクワガタに出会ったことは一度もない。専門家の話しでは厚沢部や上ノ国と呼ばれる地域に生息しているらしい。私の場合、放っておけば駐車場で車に轢かれてしまう状況にある個体を保護する立ち位置で採集するので、わざわざ山の中に入ってまでは探さない。

ミヤマとノコギリはかなり戦闘的な性格で、餌を取り替えたり飼育ケースを掃除する際にユニークな威嚇をするのが見ていて楽しい。割り箸を一本与えておけばいつまでも戦っているので逃走することもなく、ガチャガチャと音を立てているので見失うこともない。一方コクワガタは非常にビビりな性格で、人影が近づいただけで慌てふためいてマットに潜る。部屋の中に放すと家電や家具の下に潜り込んでしまうので厄介だ。体がとても薄いので、ゴキブリ並みに狭いところへ入り込む。戦う意識がないので玩具を与えても、それから逃げる。

クワガタは犬や猫のようになつかない生き物ではあるが、見ているととても可愛く、飽きない。カブトムシも決して人には慣れないと言われているが、私の経験ではクワガタの比ではない。三年ほど前に拾ったカブトムシのペアは部屋の中を自由に飛び回り、私の手にランディングする可愛い夫婦だった。六十個のタマゴを産み、それが全て羽化してしまい、里親捜しに苦労した。カブトムシは人に慣れるし、その繁殖力はクワガタの比ではない...それが私の見解だ。ノコギリクワガタは比較的誰でも簡単にブリーディングが可能だが、ミヤマクワガタの繁殖に成功したという話しを身近な場所では聞いたことがない。その割に北海道にはミヤマクワガタがたくさんいる。街から数十キロも離れれば、駐車場の街灯の下でいつでも出会える。最近は少なくなったが、それでも必ずいる。むしろ、本来いないはずのカブトムシがとても増えている。私がカブトムシと出会った最北は道北の枝幸町の山間部。もしかすると稚内辺りまで北上しているかもしれない。

私が拾ったカブトムシのほとんどが、ほんのり堆肥の臭いを纏っている。たぶん牧場の牛糞堆積場で幼虫期を過ごし、そこで羽化しているのだろう。氷点下の真冬でも堆積された牛糞の中は醱酵しているので温かいのだ。九州や関西にいる個体よりやや小振りだが、栄養状態は悪くないらしく、皆とても元気で力強い。北海道ではいてはいけない外来種として駆除の対象になっているが、もう彼らの繁殖を止めることは難しそうだ。大きな体でバイタリティーのあるカブトムシは、明らかにクワガタよりも体力的に強い。餌場では彼らより小さなクワガタは駆逐されるだろうな。若干、頭も良いような気がする。

北海道の夏は短い。クワガタ、カブトムシと出会えるピークはあと二週間ほどだろう。今年は我が家のコクワガタ君のお嫁さんをゲットする予定。専門家のサイトを閲覧して雌の特徴を頭に叩き込んだので、たぶん迷うことなく採集できるだろう。まぁ、立派なミヤマクワガタやノコギリクワガタを見てしまうと拾わずにはいられないので、今年も飼育ケースが増えるだろうな。お世話が大変になるので五ケースまでと上限を設けているが、どうなることやら...。
                 
        

輪廻転生

2017/ 07/ 29
                 
まぁ、私たちクラスの人間はこの輪廻の巡りからなかなか外れられないのだけれども、それを幸運なことと思い込んで頑張るしかないわけで、今日もあちこち体の痛みを抱えながら生きています。引継ぎ週間がやっと最終日を迎え、くだらないお喋りの時間も今日で終わり。「俺たち、生まれ変わってもまた運送屋かもしれんな...ただ、新しい時代に生まれたら宇宙船の運転手になってるかもね...今日はアンドロメダか、遠いなおぃ...なんて言いながらワープしてんじゃね?」なんてアホな話題の尽きない一週間だった。案外、その通りになってしまうような予感がするけれども、物流という仕事はなくなるだろうな。必要なものはその場にパッと現れる仕組みができるだろうから、宇宙船での移動は何か他の理由によるものだろう。物理的な移動であれ、意識的に位置することであれ、とにかく知らない世界を見に行きたい。生まれ変わり自体が旅のようなものだけれどね。
                 
        

SNSを使った出前注文

2017/ 07/ 28
                 
最近はめっきり出前など注文しなくなった。事務所に閉じ込められて外に出られない仕事をしていた頃は頻繁に頼んでいたが、ラーメンにしても丼物にしても、わずかなフードマイレージが食べ物を台無しにしていたと思う。勿論、作ってくれる人はプロなので、運ぶ距離を考慮して茹で時間を調節しているのだろうけれども、それは何らかの妥協点でしかなく、やはりお店で食べるクオリティーを維持してはいない。なのに出前は無くならない。まるで文化のように根強く続けられている。確かに、プロの料理を会社や自宅で食べられるのはちょっと嬉しい。最近、ラインにフードデリバリーのアプリが追加された。それを開くとお決まりのファストフード店に注文ができるのだ。余計に手数料がかかるようだが、スマホでメニューを見ながらタップして注文ができるのは便利かもしれない。肉体的にも精神的にも疲弊して、誰ともコミュニケーションを取りたくない時には使える機能かもしれないな。店側でも注文の受け間違いがなくなるので歓迎しているシステムだろう。人との繋がりは希薄になるかもしれないが、客も店も無駄な不愉快な思いをしなくて済むのなら、それに越したことはない。
                 
        

脳裏の情報交換

2017/ 07/ 27
                 
常にビジュアルが脳裏に浮かんでいるのは人の日常だが、それが脳の裏側で起きていると気付いたのは誰だろう?。普通に目で見る画像信号が伝わる視覚野は後頭葉の大脳皮質にあるらしいが、目の前にないものを見ているのは脳の裏側だとする表現が素敵だ。その領域は未だ神秘に包まれている。人は脳のほんの数パーセントしか使っていないと言われるのは周知の事実。脳の内部にどんな未知の機能があるのか、まだ誰にも知られていない。人の設計図がどこかにあると思うが、今の幼い人類にそれを見せたら、現実の定義が崩壊し、自らを滅ぼすようなことをするだろうな。

今週は仕事の引継ぎのために、会社の合併先の人と二人乗りしている。同年代のドライバーなので話題には尽きない。昨日から仕事中に通る心霊スポットの注意事項まで引き継ぎしている。経験年数も体験もほぼ同じなので、既に共有していた情報もある。普通は目に見えないとされるものを知覚している人は意外に多いのだが、なかなか同じ感覚を持つ人との出会いは少ない。あったとしても、固く口を閉ざしているのが常だ。今回の出会いは貴重かもしれないな。あと二日で、私は新たな仕事に就く。
                 
        

人種

2017/ 07/ 26
                 
白人や黒人という分け方には何かと問題があるので、先祖の国名で何々系アメリカンとか、アフリカ系アメリカンとか言うのが今の常識だが、更に細分化した表現が必要なことも増えた。例えば、同じイギリスでもアイリッシュ系だとか、その他諸々の個性を尊重する態度が求められる。欧米人から東洋人を見た場合、モンゴリアン、チャイニーズ、コリアン、ジャパニーズ...その人種の多さと見分けの難しさに頭を抱えていることだろう。まぁ、ある程度仲良しにならない限り人種の話しはタブーになることがあるからできるだけ触れない話題ではある。そんなことを思いながら、実は日本の中にも人種の違いがたくさんあることに気付いた。オリジナルの日本人は九州の人だと思う。北海道人とは明らかに見た目の特徴が違うのですぐにわかる。まぁ、北海道人が純粋な日本人とは言えないルーツを持っているので、オリジナルの日本人から言わせれば私たち北海道人が異色な存在だろう。ただ、北海道にも九州の血はたくさん入っているわけで、九州に郷愁を感じる人は多いと思う。雲仙から来たトラックが横に停まっているものでね、遠いところからよく来たなと、敬愛の気持ちを抱いているところ。
                 
        

環境の選択

2017/ 07/ 25
                 
生まれる前の記憶を持ち続ける人が希にいるけれども、彼らが口を揃えたように言う言葉がある。「ここだ!」だ。自分が生まれる場所を確認し、ここだと思った母体に宿ったと言う。母親になる人が可愛かったとか、その土地が気に入ったとか、まるで思い付きで決めたかのように語る人もいれぱ、両親との縁を頼りにしたとか、そこにある関係性に参加する必要があったとか、計画的な出生をほのめかす人もいる。記憶がある人は、自分が生まれてきたことを他人の責任にはしない。つまり、自らの選択によりここにいる自覚があるのだ。従って、「どうして私を産んだの?」とか、「勝手に産んでおいて何言ってんの?」だとか、親や環境に対する責任転嫁が一切なく、誰もが潔く生きている。これがあるかないかでスタート地点が随分違う。最初から持つ情報量の違いは人生の質を大きく変えてしまうものだ。記憶がある理由は人の数だけあるので説明や解説は難しいが、やはり知っている所から積み始める体験は深い知恵を生む。最近、そんな子供たちが増えていることに気付いた。あなたは、何か覚えていますか?。
                 
        

吸収合併

2017/ 07/ 24
                 
まぁ、よくある話しではあるけれども、自分が籍を置く会社が大手に吸収合併されるなんてなかなか体験できないことのような気もする。そうなんです、されました。正式には8月1日からなので、今週一杯は今までの会社の社員なわけだけれども、このまま何もアクションを起こさなければ私も自動的に大手運送会社の社員になり、給料が一気に六十万円くらい上がる。でもお断りした。お金じゃ買えないものを失いたくないのでね。それが何なのかは敢えて書かないけれど、それを手放すことなく、今まで通り暮らしていけることには最大限の感謝をしている。本来なら私が新しい環境に期待するべきなのに、私を雇ってくれる人が、「必ず期待に応えるから」と言ってくれるのだ。誤解されると困るので言葉にはしていないが、私は誰にも期待しないし、信頼もしていない。それは逆説的に疑いもしていないと言うことであり、言ってしまえば信頼という言葉を超えた信頼だ。従って、どんな失敗が訪れようと、私は自分の選択の結果として責任を取る。何の駆け引きも無く参加し、真っすぐ人の道を歩むことによって、より多くの人が幸せになる道を切り開くだけだ。発見は発掘、出会いは再会。この器から溢れたもので、周りを潤す。
                 
        

睡眠時間

2017/ 07/ 23
                 
休日を使い、寝てから自然に起きるまでの時間を計ってみた。九時間という答えが出たのだが、この時間は子供の頃から変わらぬ長さだ。やはり私は毎日九時間眠るべきなのだろう。約三週間かけてデータを取ったが、三回ともきっちり九時間で目が覚めた。仕事のある平日は朝の五時に起きなければならないので、私は夜の八時には寝なければ睡眠負債が発生することになる。帰宅するのが毎日午後六時過ぎなので、食事と入浴をしたらもう終り。まぁ、読書したり原稿を書く時間は仕事中にたっぷりあるので問題はないのだが、夜の八時にベッドに入るなんて、カルピス子供劇場を観終わったら「寝なさいっ!」と言われた小学生時代以来、数えるくらいしか経験がない。学校嫌いの私にとって、日曜日のサザエさんとアルプスの少女ハイジが終わるあの時間は、死刑を宣告されたような瞬間だった。

アニメで思い出したが、私が小学生の頃は土曜日の真夜中二十三時からルパン三世が放送されていた。いつもは二十時に寝なければならなかったのだが、土曜の夜だけは零時まで起きていることが許されたので、毎週欠かさず観ていた思い出がある。あれは当時、大人の漫画だったのだ。今も昔もレアなアニメは深夜、もしくは日曜日の午前中に放送される。マトリックス、攻殻機動隊、ガサラキ...この三つのアニメだけは強烈にハマった。残念な話しだが、最近は寝不足になり、健康を損なってまで観たいと思うテレビプログラムが見当たらない。歳を取ってしまったのかな。まぁ、年齢を重ねると外界に興味がなくなるのは自然の摂理かもしれない。引退した老人たちを見ていると、徐々に微睡と現実の境目が曖昧になっている。覚醒を得られずに死ぬと、人は眠りの森を漂うことになる。それが悪夢だとしたら、もう最悪。しかし、眠る前に覚醒する必要性をどう説明すれば良いのかがわからない。二元の法則や理論を超えた時点で、言葉は出番を失ってしまうのだ。とりあえず私は、健康に生きていられるうちに、日々に必要な睡眠時間を取りたい。色々な意味で起きるのはそれからだ。
                 
        

何気ない日常

2017/ 07/ 22
                 
トラックドライバーという仕事柄、車の電装品をいつでもその場で修理できるよう、工具や部品の類を持ち歩いているのだが、交換はしたけれども、まだ使える配線やヒューズ、電源取り出しのソケットやコンセントなどの部品がどんどん溜まってくるので、たまに整理して部屋の押入に仕舞う。で、掃除中にそれを見つけた女房が、「なんでこんなゴミをとってあるの?...ショートしたら怖いから捨ててよ」...と騒ぐ。ごちゃごちゃと電線や金属端子が入ったカゴは確かに見栄えの良いものではないが、どこからも電気を流していないものが何故ショートするという思考になるのかが理解できない。そのように説明しても、「線に電気が残ってるかもしれないじゃん!」と宣う。まぁ、帯電していない物質や生き物など存在しないかもしれないが、百歩譲っても私のゴミには火花を散らす能力はない。それでも一緒に暮らす人の恐怖は取り除かなければならないので、渋々片付ける土曜日の朝。小さな軋轢の連続が、結婚生活を二十五年も継続させている。

今更?と言われそうだが、昨日やっとキンドルをインストールした。これまで頑なに紙の本、それも文庫本に拘って買い続けてきた私にも、とうとう時代の波が押し寄せてきたのかもしれない。とりあえず、アマゾンのサイトで無料の本を見つけてダウンロードしてみた。ほんの十分くらいで読み終えてしまうものだったが、明るい画面に浮かぶ縦書きの黒い文字は、想像を絶する読みやすさだった。脳の慣れの問題かもしれないが、日本語を読む速度は横書きより縦書きの方が速い。これはハマるかもしれない。まさにスマートホン。いくら大型のトラックに乗っているとはいえ、アメリカのトラックに比べたら運転席もベッドも頗る狭いので、紙の本は文庫本サイズを超えると収納ボックスに収まらない。何日も家に帰らない生活をしていたときはキャビンの中が古紙回収業者か?ってくらいの本で溢れた。今後は心を入れ替えて、電子書籍を選ぼうと思う。新刊でも紙より安く売られているものが多いし、私の格安スマホでさえ何千冊分ものデーターが入るらしい。いつでもタップするだけで読めるし、何故今まで使わなかったのかと思う。ただ、油断すると本を買いすぎるかもしれない。視力の低下には気をつけたい。

今日は早朝から百二十四kmほど走って帰ってきたのだが、「昨日、配達し忘れた荷物を運ぶから仕事させて!...時間外も休日手当もいらないから!」と会社に断りを入れ、七時前に配達を終わらせ、郊外にあるお気に入りの野菜直売所まで足を伸ばした。二軒の店を周り、今朝収穫された新鮮な野菜と果物を山盛り購入。週末はいつも仕事中に買い物を済ませることにしている。私が買ってくる野菜は、近所のスーパーマーケットや都心のデパ地下以上のクオリティがありながら価格が半分。親戚縁者にも頼まれるので、時には一メートル四方のパレット一枚に山盛りになることもある。最近は自家用のフォークリフトを買おうかなと思うほどだ。そんな、何気ないけれども、豊かな日常に感謝。
                 
        

普段の行いに救われた

2017/ 07/ 21
                 
実は昨日、今朝配達予定だった荷物を積み忘れてしまい、早朝から焦ってしまった。しかし普段から集配先とのコミュニケーションを良好に保つ気遣いをしていたお陰で、「明日でいいよ!」と、あっさり許された。まぁ、出荷先の出し忘れとかもよくある話しで、そんなときには嫌な顔ひとつせずに荷物を取りに戻ったりしていたから、互いにフォローし合う関係性が築かれた感じだ。助ける者は助けられる...エネルギーの法則に感謝。

話しは変わるが、先日お金をタダでくれるという田中賢という人の”I WiSH Project”なるものを読み続けていたのだが、やはり幼稚な詐欺だった。最終的にはクレジット決済のサイトに誘導され、経済的な困窮状態にある人々を更なる困窮の深淵に叩き落としかねないプログラムだった。世間に顔をさらし、よくあんな危険なことができるなと思ったが、実はあの動画に出演している全ての人が借金まみれで、詐欺に加担せざる負えない状況にあるのではないだろうか。まぁ、あんなものに騙されてクレジット決済サイトをクリックしてしまうような人は、何をやっても救われないだろうな。
                 
        

孤独

2017/ 07/ 20
                 
私は孤独を体験した記憶がないのだが、振り返れば独りでいる時間がとても長い。基本的に母子家庭で、その母は仕事の鬼だったので、幼少期は祖母に育てられた。しかし祖母の他界後は、母の彼氏とお手伝いさんに面倒を見てもらった。要するに、赤の他人に育てられたわけで、手放しに甘えられた思い出がない。小学生になると自分のことは一通りできるようになり、学校が終わり、友人たちと遊ぶ時間が過ぎれば独りの時間が始まる。しかし不思議なくらい寂しさを感じたことがない。何故なら、この世界には普通なら感知できないらしい存在であふれていて、それらが常に私のそばにいて干渉していたからだ。社会人になったとたんに途切れたが、それまではずっと、24時間専属の家庭教師の教育を受けていたようなものだ。そんな環境で孤独を感じるわけがない。

私はいつも、「お前は全然特別ではない」と言われて育った。そのお陰で社会的な地位や名誉、経済的な成功を望むことも、根拠のないプライドに苦しむこともなかった。祖母の実家が病院だったこともあり、私は医者と看護師に囲まれて育ち、大勢の人の生と死に触れた。生きている人と、そうでない人の違いをはっきり認識できなかった私には混乱の連続だったが、成長と供に命の存在形態は肉体だけではないと理解するようになり、その付き合い方も自然と身についた。孤独な存在は生死に関わらず、与えたり、分かち合ったりすることを知らない。求めなければ与えられないと言う言葉があるが、あれは全くの嘘だ。与えたものが還ってくると言うのが物事の真理。そこに議論の余地はない。
                 
        

混沌

2017/ 07/ 19
                 
性悪説、性善説など説に過ぎないわけで、魂の本質は絶対的な善だと私は思う。そもそも他を犠牲にして生きる存在は説に当てはまる対象ですらなく、まだ人の道に足を踏み入れていないと言うのが真実。人以上にも、人以下にもなれるのが人間なのだ。この世はその両方と同じ場所で生きられる貴重な場所。人しかいない所では人が何なのかも学べない。カオスに飛び込む価値はそこにある。社会からドロップアウトする意味での出家は、自ら学校を退学するのと同じ。ちょっと考えればわかると思うが、ゴータマシッダールタの出家は真逆の意味だ。彼は社会と隔絶された家を出て、混沌に飛び込んだのだ。宗教に帰依して山に隠るなんて、私に言わせれば自殺と同じ。混沌の中でしっかり生きること...人の道は、そこから始まる。
                 
        

タイムトラベル

2017/ 07/ 18
                 
この肉体ごと時間の壁を超えるには厄介な問題が多そうだ。プライベートな域を出ない条件付だが、意識だけなら比較的簡単に違う時代にアクセスできる。私は違う現在と過去しか見えないのだが、中には未来へ言って帰ってきたと言う人もいて、これから起こるであろうことについて述べているのを読んだことがある。しかし一口に現在と言っても、ここには違う現在がたくさん存在していて、たぶん人が考えられる全ての選択肢が形になって存在しているのだと思う。そしてもちろん、過去も未来も同じように無数にあるのだ。私の体験では、一度未来の時間に意識を同調させた時点で、過去にいた全く同じ世界に帰れることは絶対にない。何故なら、未来を知ってしまったことによる過去の書き換えが起こるからだ。どうしてそんなプログラムになっているのか理解できなかったが、最近の量子物理学で未来から過去に流れる時間を発見したとか...そんな話を耳にし、なるほどなと思った。従って、未来で見てきたことを語ったところで、それは違う過去になってしまっている可能性が高い。要するに、例え映画のようなタイムマシンが完成したとしても、行く先々で何か事件を起こせば、そこに繋がる未来や過去は変わるかもしれないが、その全貌を知っているパイロットは知っているが故に元いた同じ場所には戻れないとなると、時間を超える意味を失うだろうな。
                 
        

匂いの波長

2017/ 07/ 17
                 
中学生になった頃、私は人を匂いで区別している自分に気付いた。臭い人、いい匂いの人、それが人格に何らかの関係性を齎していることを理解していたし、風下にいる限り、遠く離れた場所にいる人でも流れてくる匂いで個人の特定ができたほどだ。犬には到底及ばないが、人にしては嗅覚が優れている方だと思う。匂いのほとんどが空気中の水分濃度や粉塵の量に激しく影響を受けるものだが、その変化を覚えてしまえば間違えることはない。

この30年で北海道の匂いはとても変わってしまった。子供の頃に嗅いだ空気は今よりもかなり乾燥していたと思う。まったく無かったわけではないが、過去にスコールに襲われた記憶がほとんど無いのだ。それが今、週に一度は必ずスコールが来る。それにより土壌の匂いが40年前に嗅いだ埼玉県上尾市の畑の横の匂いと同じになった。どこで嗅いだ匂いなのかをすぐに思い出せるのは、それだけ脳にとって強い刺激だったと思われる。

犬が匂いで恐怖を感じて逃げ出したり、突然戦闘モードになる気持ちがよくわかる。自分を愛してくれる人の匂いには無条件降伏してしまう感覚も理解できる。大人になってからは、この匂いでさえ電波のようなものだと知った。つまり、目には見えないものでも匂いがあることに気付いたのだ。芳しい香りが、突然私の体の中を通り過ぎて行くことがある。あれはたぶん、可視光線域外の何かが私と重なった瞬間であり、科学的な現象だと思う。

世の中には「においセンサ」なる臭いを測定する機械があるが、空気中の導電率変化を検知するものと電圧変化を検知するものの他に、周波数の変化を検知するものもあるらしい。言ってしまえば導電率も電圧も変化すれば周波数の変動で検知できるはず。そう考えると、匂いが見えたり音が見えたりしても何も不思議なことではないと言える。トレーニング次第では意図的に匂いを色に変換したり、音を色に翻訳することができると言うことだ。

もしかすると、芸術家にはそんな脳を持つ人が多いのかもしれないな。残念ながら私には匂いや音を色で見た体験がないので、理論的な理解しかできないのだけれども、何かの拍子にコツを掴んで見られる可能性がないとも言えない。もしかするとそんな研究はどこかでとっくに行われているものかもしれないし、そこで見つかりそうになっている答えのバイブレーションが世界中に広がっていて、単にそれを受信しているだけのような気もする。
                 
        

涼しい話し

2017/ 07/ 16
                 
心霊体験とは言え、私には日常の風景でしかなく、まるで恐怖を感じていないが故に人を恐がらせる話し方ができない。たまには意に反して怖がってくれる人もいるが、ここにある真実は、基本的に悲しみと、温もりと、笑いでできている。ネガティブなことは全て悲しみが原因だし、愛情と執着には、人を想う同じ温もりがある。そして行動の全ては、過ぎ去れば笑えるものばかりだ。


あれは十九歳の夏の日、私は毎日バイクを乗り回し、何日も家に帰らない日々を過ごしていた。夏休みが終わりに近付いていたので、そろそろ札幌に帰ろうと湖畔の山道を抜け、苫小牧のとある踏切を渡った瞬間、女子高生が後ろに乗ってきた。霊的な視点を説明するのは難しいのだが、後ろにいても彼女の姿が全て見える。孤独と絶望に包まれ、誰かにすがらない限りその場を動けない典型的な自縛霊。お腹の中にもう一人、小さな霊もいた。妊娠を知った彼氏は知らん振り、厳しい家庭で育った彼女は誰にも相談できず、列車に飛び込んだのだ。彼女は私の背中にギュッとしがみつき、「大通公園...」と、小さな声で囁いた。思い出の場所らしい。嫌な感じはしなかったので、テレビ塔の下まで乗せたのだが、彼女の体は、凍えるほど冷たかった。


引っ越し仕事に赴いたときの話し。二十代後半の青年の単身パック業務を請け負った。荷造りと言えるほどの作業もなく、彼の母親が手伝いにきていたこともあり、ほんの一時間で積み込みが終わった。荷台から降りようと振り返ると、五十代後半くらいの男性が私を見上げていた。「なにか?」と声をかけると、深々とお辞儀をし、「宜しくお願いします」と言いながら忽然と姿を消した。顔が青年に似ていたので、亡くなった父親だとすぐに気付き、「お任せ下さい、ご心配なく」と、私は心の中で呟いた。死んでからもずっと父親をやっている姿に、心を打たれた。


北海道の道はバイク天国。技量を超えた速度を出さない限り、事故を起こす危険は少ない。私が一番お薦めのコースは、西海岸をひたすら北上する海沿いの道。あまりにも走りやすいワインディングロードには、免停ストレートと呼ぶに相応しい直線も多い。そんな場所では当然のように死亡事故も多く、やはり出る。たまたま立ち寄ったトイレで用を足していると、明らかに事故死したであろうグチャグチャの姿をした霊が壁から飛び出してきた。普通ならそこで死ぬほど驚いてあげるのが筋なのだろうが、「何やってんだお前?」と言う私の一言にたじろぎ、こぼれ落ちた目の玉が自分の口の中に入り、「オェ」っとなった。「キモイぞお前っ!」と言いながら爆笑してしまい、それにつられたのか、彼も血まみれの壊れた顔で、笑った。
                 
        

帰る場所

2017/ 07/ 15
                 
七月も半分を終え、あとひと月もすればお盆休みに入る。北海道は連日の猛暑で病院送りになる人が増えた。ふと気付いたのだが、私は暑さにめっぽう強い。カリフォルニアやメキシコ、ハワイの暑さを十二年ほど体験しているからだろう。かつて実家のあったイリノイ州のシャンペインというど田舎では、真夏に45℃を体験している。しかしそんな暑い場所でも、日本のような湿度はなかった。北海道に長く暮らしていると、東北辺りから西の湿度には耐えられない体になる。グアム島くらいまで行くと、あの湿度はもはや浴室と同じ。しかしあそこで生まれ育った人には、ホッとする湿度らしい。確かに、お肌には良さそうだ。

今年も恒例の帰省ラッシュがくるんだな。うちの親戚筋はお盆の航空券を五月に予約しなければ手に入らないと言っていた。交通機関の全てが満員。道路は大渋滞。私にはそんな民族の大移動に参加する気力がない。幸い私にはもう帰る場所がないので、何処へ出掛けることもなく、仕事の無い日は築四十年のアパートで過ごす。書いていて気付いたのだが、私が人生で一番長く暮らしているのはトラックの中だ。

八月の十日くらいから街の人口が激減する。人も車も極端に少ない静かな街は、なんだかとても安らぐ。空中に漂う人々の思考や感情の束が消える瞬間だ。そんな空気を胸一杯に吸い込み、「あぁ、ここが自分のバースプレイスなんだよな」と、しばし温もりに浸る。わざわざ帰る必要のないことに感謝するべきだろう。顔を見せに行かなくてはならない義務のある両親もいない。海外を放浪する青春時代を送ったお陰で、結婚はできたが、この暑い夏の日に何処かへ遊びに連れて行く子供もいない。「寂しくないか?」と訊かれることもあるが、私は孤独を知らない。独りでいられる場所には喜んで飛び込む。今いる場所が、私の帰る場所なのだ。
                 
        

生と死の狭間で

2017/ 07/ 14
                 
倒産した工事業者の資材置き場を片付けに行った時の話しだが、古いコンクリート製の土管をクレーンで吊り上げる準備を始めると、小学三年生くらいの少女が忽然と土管の上に現れた。歩いてきた姿が一切視界に入っていなかったので、すぐにこの世の存在では無いことに気付いたが、ニコニコしながら私を見つめているその顔は、屈託の無い可愛らしいものだった。そこに何年いるのかわからなかったが、たぶん随分前に死んでいる。遊んでいて、崩れ落ちた土管の下敷きになったのだろう。迎えは来ているはずだが、彼女には死の自覚が無いので見えも聞こえもしないのかもしれない。しかし私の姿は見えているようだったので、その場に屈み、両手を広げて「おいで!」と言ってみた。少し躊躇した後、走って私の胸に飛び込んできたので、精一杯の愛情を込めて抱きしめた。数分後には、ほんわかとした暖かな光を放ち、彼女は消えた。ずっと独りで、寂しかっただろうな。遠くで少女の手を引く老婆の姿がはっきりと見えた。見送る私に、老婆は何度もお辞儀を繰り返していた。
                 
        

攻撃衝動

2017/ 07/ 13
                 
北海道のカラスたちが子育てを始めた。いつものように街行く人々の後頭部に爪を立てる彼らは、正に頭を抱える存在だ。あれほど知能の高い彼らも、太古の昔にプログラムされた衝動には逆らえないようだ。実際、攻撃は自らを危険にさらす行為でもある。見ていると、決して我武者羅に襲っているわけではない。反撃を予測して、人の正面からは絶対に攻撃しない。経験からか、おっさんと男の子たちには特に慎重だ。比較的余裕で頭に蹴りを入れられているのは、おばちゃんとOL、そして女子小中高大生たち。まぁ、希に棒を振り回してカラスを叩き落とそうとする小学生の女の子もいるが、そんな子にはカラスも絶対に近付かない。人を襲わなければ雛を奪われることもないのだけれどね。触らぬ神に...と言う理解は無理のようだ。子育てをしていない時期の彼らとは比較的平和な共存が可能なのだが、守るものを与えられた彼らには、そばにいる生き物は全て敵にしか見えないのだろう。先日、後輩がゴミ箱を漁るカラスに石を投げた結果、彼の乗用車は夥しい糞に包まれた。カラスには復讐する思考回路もあるんだな。あと二週間ほど、彼らの攻撃衝動は止まらない。どなた様もお気をつけて...。
                 
        

ステルス

2017/ 07/ 12
                 
何でも左手でやってしまう幼少期の私を、教育者だった祖母は徹底的に右利きに矯正した。私なりに全てを明け渡すことはしなかったお陰で両利きになったが、右手を利き手並みに操ることができる大人になり、お昼時の混雑した食堂では重宝している。やはり右利きの人がマジョリティ、左利きはマイノリティなのが今の日本社会。一人だけ左手で箸やスプーンを使うと、一番左端のカウンター席でもない限り迷惑な存在になってしまうのだ。脇を締め、窮屈な肩身の狭いスタイルで食事をしている左利きの人を見ると同情するが、やはり個性を主張するより、柔軟に多数に溶け込むステルス技術を養うべきだろう。これはあらゆる国で基本的なお行儀として通用することを実感している。即座にその場所の常識を見極め、同じ振る舞いをする。目立つことなく、強く関心を持たれないことは、危険な目にも遭いにくいということなのだ。他人の気に障らない自然な存在の仕方は、人が最初にマスターするべき防衛手段だと思う。
                 
        

時間に関する洞察

2017/ 07/ 11
                 
学生時代、「時間について、小学6年生にも理解できるよう、1分で説明しなさい」...と言う課題を出され、頭を抱えたことがある。いつも無理難題を突きつける教授だったが、それに比例するユーモアも持ち合わせた面白い先生だった。「何でも良いから、私を笑わせ、唸らせる小論文を提出しなさい。面白かったら、残りの講義は出席しなくても単位をあげます」...なんてことも言う人で、私は「幽体力学」というテーマで原稿用紙50枚を提出し、10回の講義を欠席した。で、時間の話しだが、「観測者の置かれた環境により、時間の長さは変化する」と誰かが言っていたのを思い出した。この短い言葉にどれだけの深い理解があるのかなんて想像もつかないが、要するにこう言うことだなと、「大嫌いな先生の授業の時間はとてつもなく長く感じるけれども、大好きな友達と遊ぶ放課後の時間はあっと言う間に終わる...つまり、自分が今どんな状況にいるかで時間の長さは変わるから、誰もが同じ長さの時間で生きているとは限らないんだよ」...そんな風に説明し、単位をもらった。実際は誰も本当のところはわかっていないんだろうな。無数の時代がそれぞれ違う周波数で同時に進行し続けているパラレルな世界の仕組みを、きちんと説明できる人なんていないだろう。この観念を述べた人は、左右の脳が常時同時に情報を共有しているような壊れた人だったんじゃないのかな?。まぁ、天才と呼ばれる人には何かが異常なことが多い。とりあえず私は、今ここで生きていられることを楽しみたい。
                 
        

偏らない難しさ

2017/ 07/ 10
                 
善と悪は全く同じ質のエネルギーなのだが、敵対しているものと思われているのが歯痒い。違いと言えば進む方向くらいなもので、互いにその存在意義を依存する関係にある。要するに、善と悪は紙一重で、いつでも入れ替わることができるのだ。例えばの話し、最悪の犯罪者を刑事にすれば希に見る検挙率を叩き出すだろうし、逆に刑事が反社会組織の幹部になることも簡単で、この社会には実際に元刑事の暴力団幹部が存在している。早い話しが、悪がいなくなると正義が存在できなくなるのだ。従って、正義は常に適度な悪を生産し、育んでいるはず。余程誠実でなければ、この世界で少しも傾かずに中心にいることは難しいかもしれないが、それができれば、人は悪魔と遊ぶこともできる。
                 
        

全商品無料のスーパーマーケット

2017/ 07/ 09
                 
オーストラリアのシドニーには、商品がすべて無料のスーパーマーケットがある。会社名は「オズハーベストマーケット」。以前から食品ロスの問題に取り組む企業で、消費期限が切れる前に廃棄処分になる食品を色々な店から引き取り、専用の店舗で陳列している。客は一人カゴ1個分まで持ち帰ることが許されており、商品には値札もなく、食べるには充分なクオリティーがあるという。客には寄附が求められるが、そのお金は生活に困っている人たちの施設や、救済団体に振り分けられるシステムになっているらしい。経済システムから脱却し、働く意味が100%社会奉仕になるほど人類が進化すれば、いずれスーパーマーケットは全てこの"OZ Harvest Market"スタイルになると思う。必要なものがいつでも何の取引もなく手に入るなら、争いごとのほとんどがなくなるはず。誰もが慈しみ合えるまでに成長すれば、経済など必要なくなるはずだ。まぁ、歴史的には希に見る速度で我々は進化している。書き換えの終わった個人が増えてくれば、自ずと社会は変わるはず。
                 
        

溜息

2017/ 07/ 08
                 
昨日、いつものコンビニで女性客の横を通り過ぎたとき、深く大きな溜息をかけられた。決して私が彼女に溜息を故意にかけられるような振る舞いをしたわけではない。とりあえず息の臭いは無かったので、少しは救われた。誰もが吸って、吐く空気ではあるけれども、使用後すぐの空気をかけられるのは気分が悪いものだ。彼女は無意識に自分の中にある悪いものを他人に与える行為で楽になろうとしていた。考えすぎだと言う人がほとんどだろう。しかし私は何らかの関係性を結ばれた時点で、瞬時に相手の心の中に入ってしまうのだ。高給取りの配偶者と、それなりの責任を持たされた自分の仕事、そして可愛い2人の子供にも恵まれた理想的な家庭を手にしながら、ご主人や会社、ご近所付き合いにうんざりしている。要するに、自分の選択を後悔しているんだな。まぁ、そんな人は多い。いずれは今の幸せに感謝できなかった過去の自分に後悔するだろう。失った後に物事の大切さを知るステージがまだまだ続くが、そんな体験ですら、贈り物だったなと、感謝する日が来る。
                 
        

お行儀の基本

2017/ 07/ 07
                 
最近、販売士という資格があることを知った。運送業界には実に様々な異業種からの転職者が多い。で、そんな資格を持つトラックドライバーがいるのだが、爽やかな挨拶、発声の方法、美しいお辞儀の仕方を習った。少し練習しただけでマスターできるものではないが、基本を押さえると何だか嬉しくなるものだった。早速接客をしたくなるから不思議だ。人を不愉快にしない基本的な振舞いって、凄く大切な技術だよね。ご興味のある方は、社団法人・日本販売士協会で詳細をチェック!。この手の専門家を、あらゆる教育の現場に常駐させて欲しいと真剣に思う。
                 
        

2017/ 07/ 06
                 
漠然とした恐怖に苛まれ、その原因もわからず病んでしまう人がいるが、まだ来ていない将来に不安を抱いていながら、何の対策もせずに怖じ気づいていても時間の無駄だと思う。未来などを眺めて立ち尽くす暇があるなら、目の前にあることに全力を注げないのだろうか?。挫折する人を見ていると、常に筋の通らない理由を述べて何もしない時間を過ごしている。まるで夢の世界を漂う小舟のようだ。

夢のない人生などつまらないと言うのが今の社会の価値観のようだが、私に言わせれば、人は夢を見るから挫折するのだ。少しややこしくなるが、夢を見ている夢を見たことのある人は多いはず。人は既に夢の中にいる。自分の人生を投影しているのは自分自身だ。自ら不幸になることで何を学ぼうとしているのか知らないが、どうせなら、その不幸になるためのエネルギーを、誰かを幸せにするために使えないのだろうか?。

あらゆる物事が行き詰まり、人間関係が拗れてしまうのは、常に自分の見栄や欲求、そしてプライドを優先させた利己的な態度が原因だ。私たちには、何か偉いものにならなければならない使命などない。それどころか、何かになる必要すらない。今、目の前にあることに誠実に向き合うだけで、物事は全て好転する。

夢を現実の希望として強く捉えたなら、それは計画して組み立てることができるはず。羨望しているだけなら、夢想に終わる。それは空中に漂う残存思考の束を受信しているだけで、映画を観ているようなものだ。まぁ、面白いのだけれども...。
                 
        

読書のススメ

2017/ 07/ 05
                 
独りでいても、その豊かさの中に寛げる人なら、大勢の人の中にいても豊かだ。分かち合い、与える余裕のある人は特に何をするでもなく、その存在を持って他人を豊かにしてしまう。独りでいられない人は枯渇しているので、常に周りの人から何かをもらおうとする。人は一方的に奪われることを嫌うので、尊重や尊敬のない関係性は基本的に結ばない。多くの人に嫌われる人の原因がこれだ。意に反して孤独に堕ちる人は、精神的な取引に応じられない心の貧困状態にある。これを拗らせると益々奪うことにエネルギーを注ぐようになり、人を貶める悪意に溺れる。ここまでくると、もう負の連鎖は止まらない。しかし、心を豊かにする方法の一つに読書がある。自分だけの体験から学べることなど、たかが知れている。人生の時間は短いのだ。本には大勢の人生体験が書かれてある。例えそれがフィクションだとしても、読めば必然的に洞察が深まるだろう。
                 
        

メンタルヘルス

2017/ 07/ 04
                 
頭の中に浮かぶ思考や閃きのようなものが、実は空間に漂う電波だと気付いている人はどれくらいいるだろう?。思いつきが自分のものだとするのは、勘違いだ。人は微弱な電波を発信することにより、そこにある波長に同調しているだけ。つまり人は、ラジオのような存在なのだ。発信している電波の強さや帯域の広さで、受け取る情報の量と質が変わる。従って、受信機のスペックというか、個性によって何を受け取るかが決まるわけで、病んでいればネガティブで人を傷つける類の思考を受信するし、健康ならポジティブなものを受け取る。これを理解すると、他人の思考を読むことなど簡単になるし、制御する力も強くなる。更に受発信の帯域も広くなり、標準的な枠を超えたものを感受するようにもなる。思考の波に支配されなくなれば、人は何も発信しないこともできるようになり、あらゆるものから影響を受けない場所に座ることもできる。そんな自分の中心を見つけた人は、もう心を病むことはない。要するに人は、道具である思考と情報に振り回されてメンタルを破壊してしまうのだ。来ては去る思いを、ただ見送ることができれば、人は心の健康を取り戻す。
                 
        

対人関係における緊張

2017/ 07/ 03
                 
本当の意味で緊張が必要なのは、一瞬の油断で命を落としかねない場面にいるときだと思う。しかし多くの人が他人の評価を恐れて緊張している。原因は虚栄心と仲良しの自尊心という根拠のないプライドで、大抵が親から植え付けられるものだ。親にとって子供は無条件に特別かもしれないが、外に出れば人は社会的な価値を求められる。自分が優先的に守られ、愛されるのが当然の環境で育ち、奉仕の精神を養えずに社会に参加した場合、まず味わうのは孤独と劣等感だろう。そこに無駄な緊張が生まれるのだ。例えば人前で何かを表現する場面において、純粋に人に楽しんでもらいたい気持ちがあれば、緊張などしていられないはず。格好良く決めたいとか、恥をかきたくないなどと自分本位な思考でいるから緊張する。対人関係における緊張は、単なる幼さでしかない。
                 
        

遮断

2017/ 07/ 02
                 
人の脳には、無視しても危険ではないもの、今すぐ理解する必要のないもの、そして自分が見たいもの以外を排除するという遮断機能が装備されている。目に映るもの全てを把握してしまうと、たぶん脳が情報を処理し切れないからだろう。逆に聴覚は聞きたくない音の方が耳に障るようにプログラムされているようで、例えば工事現場の破壊的な打撃音は執拗に聞こえ続ける。それはたぶん、音に頼る危険回避のシチュエーションがとても多いからだろう。しかし、人は大勢のざわめきの中から聞きたい話しだけを聞くこともできる。要するに、何に意識を集中させるかで、かなりの情報を自動的に遮断できるということだ。しかし、見なくても良いものが見えたり、聞かなくても良いものが聞こえる人は、私も含めてとても多い。それが脳障害によるものであれば、確実にコミュニケーション障害になるだろう。幻聴と幻覚は、現象的に覚醒と紙一重なのだ。人との対峙で知らなくてもよい情報が大量に流れ込んできたら、受け取る側はキツイ。目の前にいる人の、過去に犯した犯罪や異常な性癖を見せられて平気でいられる人は少ない。遮断機能は、贈り物かもしれないな。
                 
        

睡眠負債

2017/ 07/ 01
                 
睡眠負債という言葉を聞いた。適切な睡眠時間は人それぞれ個人差があるが、例えば八時間寝なければならない体の人が毎日六時間睡眠を繰り返していると、二時間の不足分が利子のように積み重なり、限界値に達すると体を壊すという、まるで返しているのに利子が高すぎていつまでも終わらない借金のような話しだ。不足した睡眠は弁護士に取り返してもらうわけにもいかず、健康を損ねた具合の悪い自分と対峙することになる。

体が欲する睡眠時間を無条件に与えたなら、私は毎日九時間ほど眠ると思う。過去に十八時間連続して眠ったことがあるが、あれは四日間寝ずに遊んだ十代の頃の話し。当時、長く寝た日の朝は体重が減っていた。高校生アスリートだった私の体は成長ホルモンが湯水のように出ていて、睡眠時の代謝能力が高かったのだろう。多いときは一晩で三kgも落ちていた。眠りの質も、今よりかなり深かったように思う。要するに負債の返済能力が高かったんだろうな。しかし、人生の半分以上を終えた今、一週間以上の連続したブラックワークには耐えられなくなった。無理をすると目眩や耳鳴り、その他得体の知れない不定愁訴を感じるようになり、最近は毎日夜の九時には就寝し、朝は五時まで寝る規則正しい生活を心がけている。
                 
        

トラウマ

2017/ 06/ 30
                 
とあるスーパーマーケットで、棚の高い場所にある商品を取ろうと四苦八苦している老婦人がいた。そばにいた背の高い女子高生がそれに見かねて近づき、その商品を降ろした途端に老婦人は、「ちょっとあんたっ、それ私が取ろうとしていたの見てたでしょっ!、なんで横取りすんのよっ!」と、なんとも意地悪な声で女子高生を罵倒した。誤解されて驚いた女子高生は商品を老婦人のカートに入れ、赤面して走り去った。まぁ、一見とても可哀相な女子高生だが、戦後の混乱期を逞しく生き抜いてきた老婦人には、たった一言の「お取りしましょうか?」というお声掛けが必要だったのだ。時代のギャップが招いた事件だが、あの体験がトラウマになり、人助けのできない人になってしまわないことを祈るばかりだ。
                 
        

気付き

2017/ 06/ 29
                 
トラックドライバーという仕事柄、私はとにかく色々な会社、倉庫、工場などを訪れる。最近になって、世の中にはパッと見ではわからない障害者が大勢いることに気付いた。

ある日、「あそこのリフトマンは誘導しても無視してガンガン来るから気をつけろよ...挨拶しても無視だし、とにかく何を言っても無視する変な奴だからヤベェぞ!」...なんて忠告を同業者たちから受けた。

数日後にその倉庫を訪れたところ、そのリフトマンに指示を出している人が、やけにオーバーアクションで、そして面と向かって話していたのだ。普通はそこでリフトマンが聴覚障害者だと気付くべきだが、彼は時々、健常者のように話すためにトラブルになる。

彼は説明する私の唇を見せてさえいれば、お願いした通り、正確にリフトを操作してくれる。その後、トラックの仲間たちにラインで事情を伝えて以来、そのリフトマンとトラックドライバーの関係は素晴らしいものになった。

私たちのような「下層」のレッテルを貼られている職種にはコミュニケーションを上手く取れない人が目立つが、実は重篤なハンディを持つ者が多いのかもしれない。ちょっとした気付きと思いやりがあれば、ここは天国に変わる。
                 
        

排斥

2017/ 06/ 28
                 
とある中学校での「地毛証明書」なるものの発行が話題になっていたが、そのような証明書が無ければ、子供たちは収拾のつかない奇抜な髪型をしてくるのだろうか?。今時、そんなダサい子供がいるとは思えないし、生まれつき髪の色や質が標準的な日本人と違う人は大勢いるだろう。親からもらった自然な姿に天然だという証明を求めた時点でパワハラになると思うし、見た目を否定された子供は間違いなく歪む。例えパーマをかけたところで、個人のお洒落感覚を否定する権利は誰にもないはずだ。勉学に集中できないとか、協調性を欠くという理由も、単なる排斥心からのこじつけのような気もする。そもそも他を認めるとか認められないとかいう考え方や、自分が人を評価できる存在だと勘違いしている教育者の幼さが大問題なのではないかと私は思うのだが、どうだろう?。人との対峙に於ける愛ある感応の重要性を知る教育者が少なすぎる。人の上に立つ者は、私たちの存在理由や在り方についての深い洞察が必要だ。それを持ち合わせた教師に、私は出会ったことがない。子供たちは大人を反映している。苛めがなくならないのは、私たち大人の責任だ。
                 
        

金魚鉢

2017/ 06/ 27
                 
金魚鉢で漂う赤い魚たちを眺めていたら、そこに宇宙の縮図を見つけた。彼らは誰もが同じ水を吸い、吐いて生きている。私たちも皆、同じ空気を吸い、吐いて生きているのだ。ここで肉体生活を送る生命体は全て、そんな循環の輪の中で生かされている。金魚たちにとっては鉢の中が地球であり、その外側は理解を超えた世界だろう。私たち人類も、地球という金魚鉢の中で、宇宙という理解のできない外界に囲まれて生きている。時折ジャンプして、一瞬だけ外の世界を垣間見ることもあるが、それは人も魚も同じ。私たちは小さな水溜まりの中にいて、自分が何を知らないのかを知らないことに気付かずにいる。水中生物と人類の境遇には、それほど大きな差はない。なにしろ、宇宙という金魚鉢を眺めている人がいるかもしれないのだから。
                 
        

パワハラ

2017/ 06/ 26
                 
パワハラを擁護するつもりは毛頭無いが、自分がターゲットにされ、100%被害者だという自信があるなら死ぬ前に戦うべきだと思う。精神的に逃げ場を失う前に、あらゆる証拠を物的に記録し、そんな状況になった原因を公正に分析してくれる第三者を訴訟に参加させるなど、本当に自分が義務を果たしている自信があるならできるはず。要するに私は、パワハラをしてしまう者にもされる者にも問題解決能力の欠如を感じてしまうのだ。仕事以外の当事者同士の関係性が問題のこともあるだろう。人間関係の軋轢は、ほとんどが双方の体験と知識の不足による知恵のなさが原因だ。小学校からの教育の現場で、人間の尊厳について考察する時間が足りないのではないだろうか?。
                 
        

なくなる仕事の話し

2017/ 06/ 25
                 
某大学のとある准教授の論文では、供給過剰、技術革新、消費者の行動の変化が主な原因で十年後には食べていけなくなる職種がたくさん予測されている。しかし、例え経済システムが崩壊したとしても、人が働くことはなくならない。ただ、その場合の仕事は純粋に社会奉仕になるだろうな。従って、未成熟で利己的な存在は、仕事を失うどころか存在することすら難しくなるだろう。私たちはそろそろ本格的にこの世界(宇宙)の仕組みを学ぶべきではないだろうか?。今後、最新の量子物理学がそれを可能にしてくれるだろう。我々はいつまでも無知な集団ではいられない。